実はわたし、ひどいおしゃべりです。
話を聞いてくれる人を見つけるとしゃべり続けてしまいます。
それで話しすぎたなと思うと、よく自分で言うんです。
「こんな“のべつまくなし”に捲し立てるようにしゃべってしまって……」
……じゃあ“のべつまく”があるってどういう状態なんでしょう?
先に結論を書いておきましょう。
「のべつまく」なんてありません。
「のべつまくなし」は「のべつ」と「幕なし」という二つの言葉からできています。
「のべつ」= 絶え間なく
「幕なし」= 舞台で幕が降りる場面転換のようなタイミングがない様子
これで解決しましたね。
……まだ気になることがありますか?
のべつ と まく は別のもの
なんとなくこの言葉を使っていたので全然知らなかったんですが、「のべつ」と「まく」は別の言葉です。
つまり「『のべつ』しゃべっている」と言っても間違いではありません。
———え? じゃあ『のべつまくなし』のくせに、『のべつ』はあって、ないのは『まく』だけなの?
その通りなんです。
この世に『のべつまく』なんていうものはありません。
これがほんとの『のべつまく』なし……ゴホン
のべつまくなしの文法的解釈
のべつまくなし を意味から無理に漢字にすると、
延べつ幕なし となります。もちろん漢字で表記することはありませんけどね。
先に結論を書いておきましょう。
「延べ」は「延ぶ」の連用形です。
「つ」は接続助詞の「つ」。
名詞の「幕」に形容詞「なし」。
これで慣用句「のべつまくなし」の完成です。
延べは延ぶの連用形?
つまり現在の言葉で言う「延びる」の連用形「延び」に……話はそう簡単ではありません。
というのも「延びる」と「延べる」という二つの動詞が存在するからです。
「延びる」= 自動詞 = もの “が” 延びる
「延べる」= 他動詞 = もの “を” 延べる
一番よく使うのはたぶん「手延べそうめん」という言葉です。
「手で延べたそうめん」であって、勝手に自分で「延びたそうめん」ではありませんよね。
だから「手延びそうめん」ではなく「手延べそうめん」です。
「のべつ」は誰かが意図的に時間を伸ばしていますから、おそらく他動詞「延べる」なのではないかなと思います。こちらなら現在の活用形でも連用形は「延べ」なので、その辺りの矛盾もありません。
しかし「幕なし」は「幕がない」なので、形を共通にするなら「時間が伸びて、幕もない」とした方がいい気もします。その解釈なら、「のべつ」は自動詞「延びる」の古い連用形ということになります。今の連用形なら「延び」になってしまうので、慣用句として古い言い回しが残ったと評価することになるでしょう。
どちらが正しいのかはわかりませんが、考え方はこういうところだと思います。
接続助詞の「つ」?
そしてマイナーなのが接続助詞の「つ」です。
実はそんなのほとんど聞いたことがありません。
というのも、辞書によっては助動詞に分類されるからです。
接続助詞として「つ」を使う場合、今では普通「つつ」を使います。
つまり「(時を)延べつつ、幕もなしに」を簡略化した言い回しと理解すれば、大きなズレはないわけです。
ちなみに接続助詞の「つ」はマイナーですが、今でもいくつかの慣用句の中でひっそりと暮らしています。
持ちつ持たれつ
くんづほぐれつ
同じ接続助詞の「つ」ですが、意味用法としては少しずれるのが残念ですね(意味用法が一致するものを思いついたら書き込みに返ってきます)。
ちなみに古典での用例は方丈記にあるそうです(苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。)
まとめ
のべつまくなしに書き立ててしまいました。
あ、いえ、幕はありましたね、ごめんなさい。
「のべつまくなし」は二つの言葉が合わさってできた慣用句です。
もとは芝居の用語で、幕のない長い演目を指して使われたようですが、その言葉のつくりは日本語としてもしっかり解釈できます。
絶え間なく、ひっきりなしに、幕もなく続けることを意味します。
この世には「のべつま君」も「のべつクマ」もいないんです。
のべつまくなし。意味を知ってしっかり使いたい日本語ですね。